ここで、ペトロが登場します。ヨハネはペトロをあまり重視しませんでした。しかし、共観福音書では誰とも明らかにされていない、この場における剣事件の当該者をペトロだとヨハネは名指ししました。さらに「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」(ヨハネ18:10)と、被害者の名も挙げています。
この具体性は、ヨハネ独自のものです。また、「右の耳」としているのはヨハネのほかにルカ、他のマルコとマタイは、左の耳だとしています。これは「耳たぶ」にあたると考えられていますので、耳介全体を削ぎ落としたようなイメージは慎んでしかるべきでしょう。
ペトロは、洗足の場面以前には、事実上一度しか登場していません。それから例のクォ・ヴァディス、そしてこの場面に現れるのです。この後、鶏の事件へ向けてペトロが主役となります。その後は、復活後に墓を訪れ、またこの鶏事件を受けての復活後のイエスとの対話で、ペトロの役割はヨハネにおいて終わります。ペトロはマルコの福音書と深い関係があると考えられていますから、そこではまんべんなく登場するのですが、ヨハネではこの鶏に関係してのみ登場しているかのようにさえ見えるほどです。
ペトロがその後の教会を司り、初代教会のリーダーとなったことは、ヨハネは分かっていたはずです。そのペトロに由来するマルコによる福音書そのものを読んでいたかどうかは別として、共通する資料を手元にもち、またおそらくはマルコの福音書の存在は理解していたであろうと思われますから、ヨハネのこの扱いは何か意図的なものを感じます。しかもここでは、シモンという実名のほうも重ねているのです。
これを見て、イエスが言いました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)と、マタイのように、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)のような教訓めいた響きのことは語らせていません。イエスが、堂々と十字架へ向かう姿勢を示す言葉が用意されています。ここは「杯は父が用意してくださったもの、それを飲まずにすませることができようか」と反語表現がとられています。新共同訳では伝え損ねているものがあるような気がします。
ゲッセマネの祈りでおなじみのこの「杯」も、ヨハネによる福音書においては、登場するのはこの箇所だけです。それは旧約世界では、神の祝福を表すと同時に、審判の象徴ともされています。