エウアンゲリオン

新約聖書研究に加え、新たにショート・メッセージで、よい知らせを届けたいと願っています。

異言

 このあたりは、ころころ場面展開が変わるような接続小辞が目立つ中で、「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった」(使徒19:5-7)と描写されます。イエスの名による洗礼がなされたことに意味があります。このとき、イエスの十字架は語られなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。いちいち全部を語ることはルカもやりません。要点は、イエスの福音を知らないが悔い改めは知っているという人が、遠くユダヤを離れたこの地にもいて、パウロがそこにイエスの御名に救いがあるということを確実に伝えた、ということです。聖霊が降りたのは、イエスを告白する霊ということで証明されたと言えるでしょう。イエスを正しく告白するからには、それが預言として扱われて然るべきです。異言と訳されているのは、表現的には、「舌で語る」ということです。パウロ自身は異言に価値を置いていないような書き方を、コリント書では告げていますが、あれはまた状況です。パウロが一律に異言を退けているようなことはありません。また、舌で語ることが、どの程度の、私たちのイメージする「異言」であるのかも分かりません。ただ、何か自由な発言があったとルカは言いたいのでしょうか。さらに、彼らがわざわざ十二人であったことが記されています。十二というのはいかにもイスラエルの象徴的な数です。しかし、あまり深読みして象徴の意味を読み込むことがここで適切かどうかは疑問です。ただ、それにしても、どうしてわざわざ数を書く必要があったのか、そこには何かを見ることも可能です。十二人というのはイエスの直弟子の数です。ここでは元来弟子と呼べない人を弟子だとルカは記していました。つまりこのコリントという都会においては、ルカ自身、大きな福音宣教における意義を見出していたのではないでしょうか。すでにコリント書も成立しています。ルカはその後のコリント教会がどうなったかということも、知っていたでしょう。当時もまだおそらくコリント教会と言えば、パウロが関わった教会として知られていたことでしょうから、あるいは、ローマ側に、あの大都市エフェソにも信徒がいて教会があったのだということをアピールする機会にもこの記録はなったことでしょうから、エフェソにもキリストの弟子が十二人いたように、十二人の先駆けとなった人々がこうして起こされたのです、とローマ帝国に示した意義があったのかもしれません。