エウアンゲリオン

新約聖書研究に加え、新たにショート・メッセージで、よい知らせを届けたいと願っています。

愛は始まり

ローマ13:11-14


愛が律法を完全に果たす。パウロはそう言うとすぐに、今という時に視点を移します。その愛という生き方は、どうして必要なのでしょうか。なぜ今それが求められているのでしょうか。それは、眠りから覚める時が来ているからです。新共同訳の「時が既に来ている」は、原文では「来ている」の語がなく、「すでに」で表現されています。そういう時期がすでに、そういう特異な神の時であることを知りつつ、今や救いがかつてより近づいている、と告げています。

眠りというのは、日本語と同様に、死の婉曲な表現であることがあります。しかしここでは、まさに眠りのことであり、喩えとして、霊的に無感覚になっている状態のことを言います。神を知らない、あるいは神の恵みに気づかない状態です。あるいはまた、神から離反して罪の中に浸っているような状態を指摘することもあるでしょう。これは現代の私たちに対して向けられていると考えるべきです。「目を覚ましていなさい」と主が度々命じたのは、他人事ではないのです。身の回りに起こる様々なことで、自分が眠りこけていたと気づくことが度々あるからです。

あなたがたは今ここから、新しい人生を始めることができる。新しい生活が始まる。それは新しい命である。それというのも、救いという名の終わりの時が、確実に近づいてきているからです。パウロはそのように励まします。批判するためではないのです。また、近づいているということは、確かに起こるということを前提しています。ここに信仰があります。

これまでは夜でした。しかし、やがて光が来ます。昼になります。もう、かつての闇の中で行っていたようなことから足を洗うのです。私たちは、この闇の力に勝利します。光の武具という呼称は、戦争があることを踏まえた表現でありますが、私たちは確かに戦うことがあります。ただ、私たち自身の力で戦うのではありません。戦うのは、主です。主が光であるというのなら、私が光を、つまり神をまとうことにより、神が戦ってくださるのです。

私たちは、ただその光の中を歩むに相応しい生き方をしようではないか、とパウロは提言し、また誘い導こうとしています。それは、主イエス・キリストを着ることです。パウロはガラテヤ書でもこの表現を用いています。着るということは、自分の皮や肉となることではありません。私というからだの上に装うことになります。しかし、これは救いそのものではないと理解できます。もっと魂の奥底から、つまり私の内側から、キリストは及び、救いの力を表してくださるからです。ガラテヤ書では、キリストが私の内に生きておられると叫んでいたのですから。

しかしパウロの内にキリストが働いているにしても、対照的に、愚かなガラテヤ人、と呼びかけていました。その上で、バプテスマを受けたあなたたちはキリストを着たのである、と言っていました。エリヤが外套をエリシャに掛けたとき、まだそれはほんの始まりでした。エリシャの人生はしかし、そのとき決定的な方向付けをなされ、力を与えられたのです。信仰が力になり表されていくには、いくつかの段階があって然るべきなのです。

信仰の弱い人を受け容れよ、という指摘が、このローマ書でも続いていきます。その初めが、愛することです。しかもそのことで、律法が全うされるのだと言っています。律法を守ることが目的になるのであれば、もしかすると「愛せよ」が第一の戒めとして私たちの目の前に立ちはだかるかもしれません。しかし、すでにキリストが愛したのです。私たちはそのキリストに生き働いて戴くようにします。すると、私たちにとり愛するということは、究極の目的などではなく、実は生かされて歩んでいくに際しての、スタートであると理解することもできるのです。自分の力では何ひとつできない、愛することですが、着たキリストに働いて戴きましょう。その意味で、このキリストという上着は、決してからだから脱げてしまうことがないはずのものとなるでしょう。