エウアンゲリオン

新約聖書研究に加え、新たにショート・メッセージで、よい知らせを届けたいと願っています。

「なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)

 尋問場面です。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」(ヨハネ18:19)
 性格には元大祭司というところでしょう。ヨハネの記述では、これはアンナスであり、現大祭司のしゅうとであると説明されていました。あるいは実権を握っていたという意味で、抵抗なく大祭司と称されているのかもしれません。ルカの福音書によれば、アンナスも大祭司としてカイアファと二人並べられているので、これは行き過ぎかと思われますが、ここではやむをえないとされるのでしょう。
 尋問ですから、弟子や教えなど、実態の把握にまず務めます。イエスの回答は「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」(ヨハネ18:20-21)と、一気に続きました。
 公然と話したことは、共観福音書では逮捕のときの言明のようです。尋問は無意味であるという回答であり、これは周囲の反感を買いました。「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った」(ヨハネ18:22)のです。共観福音書において、ローマの裁判でない場面でイエスがぶたれたことはありません。よほど頭に来たことなのかもしれませんが、マタイの福音書の、頬を打たれたら、のフレーズが脳裏に浮かびます。それにしても、これはユダヤ人においては、非常に侮辱的な行為です。その重みを感じ取りたいところです。
 これに対してイエスが言い返します。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)という毅然とした態度を示すのです。それは、左の頬も向けよという、赦しと従順の姿勢とはイメージが異なるように見えるかもしれません。しかし、ヨハネのイエスは堂々と十字架へ向かうメシアです。引きずられるように屠り場に向かう小羊とは異なります。そこには神の栄光が輝き、神の顕現があります。ヨハネはそういう側面を強調するために、イエスの言葉の中に、正義を表現します。