エウアンゲリオン

新約聖書研究に加え、新たにショート・メッセージで、よい知らせを届けたいと願っています。

「すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:34)

 ピラトはこれを受け容れ、兵士たちにその任務を命じました。イエスのほかの二人の脚を折ります。他の福音書には、イエスがあまりに早く絶命したことを訝しく見る空気もあったことを思うと、ここで他の囚人たちも死んだというのは、理解しにくい面があります。この二人の脚を折る記事は、ヨハネ特有のものなのです。ということは、この二人はまだ息があった、ということになります。
 ところがイエスはもう息がありませんでした。それが明らかであったために、脚を折るような手続きは不要であるとされました。ここに一つの計らいがあります。しかし、念のために別のことを兵士がしたといいます。「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した」(ヨハネ19:34)のです。この「しかし」は強い対照性のある言葉です。脚は折らなかったのだけれども、そうではなくて、槍で刺したのだ、というわけです。
 この記述もヨハネ特有です。「すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:34)とヨハネは証言します。わずか三時間かそこらで絶命した計算になるのですが、そのイエスのからだに施されたことが、槍です。この血と水の記事は、もしかすると後から挿入されたのではないか、と言われています。とくに「水」が流れ出るのは、考えにくい現象です。容易に想像できるのは、水による清めであり、場合によっては洗礼です。血は聖餐を連想させますから、救いのために必要な儀式、あるいは秘蹟といったものの根拠付けである可能性があります。
 このことは、目撃者がいる、ともわざわざ触れられていますから、逆に怪しさを感じる人が現れてもおかしくありません。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(ヨハネ19:35)もまた、前節後半からのつながりです。愛する弟子かもしれません。証言者が確実にこのことを伝えるのだ、としています。
 なぜこのような不自然なフレーズを入れたのか。それは、読者が信じるためだと述べられています。ただ、「自分が真実を語っていることを知っている」(ヨハネ19:35)というのは、ますます不自然です。自分が嘘を語っているかもしれない、と思うことなど、普通はありません。そこで、読者の信仰のために真実を語っているその証言者の言うことが、真実に違いないと、筆者はよく分かっている、というふうな理解をしてみたいのですが、如何でしょうか。