エウアンゲリオン

新約聖書研究に加え、新たにショート・メッセージで、よい知らせを届けたいと願っています。

大祭司に向かって

 まず「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」」(使徒23:1)と、パウロの弁明から始まります。ユダヤ人を相手にパウロは「兄弟たち」と呼びます。「良心」は「良識」や「常識」というような感じでもあり、常識人であると自ら証言しています。「神の前で」は「神に」としか書かれていないような語です。「神に対して」でもよいかと思われます。「生きてきました」は面白い語で、「市民として生活を送る」というような意味を伝える一つの動詞です。「市民する」というように聞こえます。当時の「市民」はいわば特権階級として、様々な権利と資格が与えられていました。特別なセレブであったのです。しかしこの始まり方を面白くないと思うのがユダヤ人の指導者たちでした。「すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた」(使徒23:2)とあります。アナニアという名前はよくある名前で、聖書にも幾たびか登場しますが、気に入らない者を虐げる、評判のよろしくない人物であったらしく、後に群集に殺されたと言われています。表現はまさに「口を打つ」とあり、黙らせよという比喩的な意味の他にも、実際的な処罰があったのかもしれません。大祭司という、ユダヤのトップから出た声はパウロに聞こえたときに、果たしてそれが大祭司だと分かってのことか分からずしてのおとぼけてあるのか、そのあたりは今は考慮せず、とにかくパウロはこの圧政的な命令に対して、「パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか」」(使徒22:3)と抵抗したのでした。自分の口を打てというその言葉は、自分自身に還っていくであろうというのです。これは、ユダヤの物の言い方としてあったものだそうです。ユダヤ側からの野次にはユダヤ的に応えるというようなところでしょうか。壁のうわべの白塗は、イエスもまた、墓を示すのに用いていました。ルカがこの墓を壁と間違えたのか、やはり壁というものがあったのか、それは分かりません。律法に背くことがどういうことなのか、パウロも相当な知識があります。大祭司が不正な裁判をするということが律法に背くのだと抵抗し、真正面から切り返しています。